10月4日に国内公開された、DCコミックスを代表する悪役であり、バットマンの宿敵のジョーカーを主人公にしたアメコミ原作映画『ジョーカー』をIMAX2Dで鑑賞しました。
本作はヒーローではなくヴィランであるジョーカーが主役の単独作品であること、そしてこれまでに実写映画化された『バットマン』のジャック・ニコルソン演じるジョーカーと、『ダークナイト』の故ヒース・レジャー演じるのジョーカーのそのどちらもが凄まじい存在感を放つ怪演であったことから、公開前から大きな期待と注目を集めていたように思います。
これまでのジョーカーはそれぞれ外見もキャラ性も大きく違えど大変魅力的だったから、今回のジョーカーがどのように演じられるのかみんな気になったよね
以下、ネタバレなしで感想、思ったことを書いていきます。
目次
映画『ジョーカー』の基本情報&あらすじ
JOKER:2019年 122分 R15+
監督
- トッド・フィリップス
脚本
- トッド・フィリップス
- スコット・シルヴァー
出演
- ホアキン・フェニックス
- ロバート・デ・ニーロ
- フランセス・コンロイ
- ザジー・ビーツ ほか
ストーリー
財政難で混乱するゴッサムシティに母と2人で暮らすアーサー・フレックはコメディアンになることを夢見る貧しい大道芸人。
アーサーは自分の意志に関係なく笑いだしてしまう神経の病気を患い、充実しているとは言えない福祉サービスの心理カウンセリングに通いながら、人々に笑いを届けようと奮闘する。しかし周囲の彼への扱いは冷酷だった。
仕事はうまく行かず、人に病気をからかわれ、経済的な援助も受けられず、さらには荒れた市民から激しい暴力を受けるアーサー。彼は「どんなときでも笑顔でいること」という母の教えに従って、苦しみながらももがき続ける…。
映画『ジョーカー』の感想
物語のネタバレは含まれませんが、一部演出やシーンに関する言及が含まれます。
主演ホアキンの演技を観るためだけでも本作を観る価値がある
本作は貧しい男性を主人公にした悲劇のドラマです。
純粋な人間が悲劇に見舞われる物語というのは、決して珍しいものではありません。
しかし、私は主人公アーサーに深く同情し、心が揺さぶられました。
その理由のほとんどは、本作で輝きを放つ主演ホアキン・フェニックスの演技によるものでしょう。
ジョーカーという伝説的ヴィランが主人公であること、歴代実写化ジョーカーがそれぞれヴィジュアル、演技含め完璧な仕上がりだったことから、新たなジョーカーを演じるホアキン・フェニックスへの期待とプレッシャーはこれ以上ないほど高まっていました。
しかし本作のホアキンジョーカー(アーサー)の演技も期待を超えるほどの本当に素晴らしいものでした。
実は本作を鑑賞する前に、自分の中でなんとなく2段階の主演に求められる演技の基準や期待のレベルのようなものがありました。
1つはジョーカーという人気キャラクターを演じる上で求められる演技のレベルと、その上の1つは一流の俳優が本気で役に入り込んで演じることで、求められたレベルを大きく上回ってみせる時のレベルです。
それで実際に本作を鑑賞し始めると、冒頭からホアキン演じるアーサーに心を捕まれる。
最初のシーンは笑顔のピエロメイクをしながら涙を流すものだったと思いますが、この表情や所作に印象的なカットが合わさって、鑑賞者はすぐに主人公の背景を想像させられてしまう。
多くの苦難に耐えながら無理矢理笑ってみせようとするアーサーと、人を笑顔にするための存在なのにいつも涙のメイクを施されるピエロが重なって、私は彼に対する情や共感を抱かずにはいられなくなりました。
「ジョーカーへの期待を大きく超えてきた。やはりこれがプロの俳優の演技なのだな」と思いながら鑑賞し続けていくと、恐ろしいことにどうやら本作におけるホアキンの演技はそのレベルもをはるかに凌駕しているようなのです。
表情やセリフだけじゃない、完成されたアーサーという複雑な人間の振る舞い。様々な小さな所作やクセ、涙や嗚咽、殴られて倒れ込み痙攣する頬、純粋で美しく優しい眼、爆発する暴力性に猟奇的なダンス。
気づくと彼が何かするたびに画面に凄まじい緊張感が走るようになっています。
この男は、手を伸ばして何を取ろうとしているんだろう、こんなところに来て何をしようとしているんだろう、と常に鑑賞者の心は揺さぶられ、静かな悲劇である本作に飽きさせません。
その一方でアーサーへの情は薄れてしまうどころか強まり、もがき続ける彼を見ながらなんとか幸せになってほしいと思わずにはいられないのです。
演技、カメラによる映像作品としての素晴らしさ
本作は重いテーマを扱った悲劇ではありますが、私はそのテーマが多くの観客にとってセンセーショナルなものとして受け止められるほどに、本作が斬新な物語であるとか、必要以上に過激な作品であるとは思いません。
私は本作の肝はテーマよりもホアキンの名演と、何より美しい映像にあると思うのです。
私は今回『ジョーカー』をIMAXのフォーマットで鑑賞しました。
これまで大作アクションや戦争映画、音楽映画以外のジャンルでIMAXを観た経験がなく、どのような体験になるのか分からなかったのですが、結論から言うと『ジョーカー』をIMAXで観る甲斐は大いにありました。
充実した音響と大画面で、トッド監督の描くゴッサムシティに入り込み、その混沌とした息遣いに浸ることができるのです。
列車がトンネルに入って行く時に切り替わる空気や、何度も登場するアーサーの家の隣の長く美しい階段、アーサーが忍び込んだチャップリンの『モダン・タイムス』が上映されているきらびやかな劇場といった、散らかった街が不意に見せる美しい情景が切り取られ、眼前に広がった時のなんとも言えない感覚が忘れられません。
トッド監督の映像とホアキンの演技とが合わさった時、顔を殴られるアーサーを観ると、自分の鼻にまでツーンとした感覚が走るほどの没入感を覚えました。
今回の鑑賞を通して、映画の世界に没入するかのようなゴージャスな映画体験は、今日においても3Dや4DX、CGIで派手に動き回るカメラワークだけがもたらすものではないことを強く実感しました。
また、本作が何より映像作品として素晴らしいと感じたポイントが、往年の喜劇映画を思わせるような要所要所の演出です。
本作の舞台となる時代ははっきりと示されていませんが、アーサーの観るテレビではアステアが流れ、劇場ではチャップリンが上映されています。
物語の中で悲しいことが起こっても音楽やダンス、ユーモアを交えて、最後は笑いで終わるのが喜劇映画。主演俳優がその魅力と、表情やパントマイムやダンスと言った演技力で観客を魅了するのも喜劇映画の特徴だと思います。
本作『ジョーカー』はあくまでも現代的でシリアスな悲劇ですが、作品の随所からトッド監督のそうしたクラシカルな喜劇映画への愛が感じられるのです。
劇中でアーサーが見事に踊ってみせた時に私のホアキンの演技に対する感動はピークに達し、まさに喜劇的といえと言えるラストシーンとそれに続く美しいエンドクレジットを目にした時に、私は素晴らしい映像作品を鑑賞したことへの感動から目が潤んでいるのに気づきました。
笑いながら泣いているピエロを演じ、病気で笑いたくない場面でも笑ってしまうアーサーが数々の悲劇に苦しんだ末に、常に笑顔のヴィランであるジョーカーへと変貌を遂げる本作。
この作品を喜劇映画のようにまとめてしまうのはなんとも見事ではありませんか。
本作のアーサー=ジョーカーは「狂って」いるのか?「アンチサイコヴィラン映画」としての『ジョーカー』
『ジョーカー』のストーリーを公開前に目にした時に、私が想定した本作のジョーカー像は「健康で善良な市民である主人公が、彼の身にかかる悲劇の末に精神に異常をきたしてしまい、善悪の区別のない、いわゆるサイコキラーになってしまう」というものでした。
実際のアーサーはどうでしょうか。本作の描写からは、アーサーは本当に最後の最後までは決して無差別な対象への悪行は犯していないように思われます(ある時からタガが外れてしまいますが)。
本編を通じて行われるアーサーへの理不尽な暴力や、不当な扱いに観ているこっちが「早く悪人になって反撃してしまえ!」と思いたくなるほどに彼は優しく、純粋です。
一方で彼は、物語開始以前から神経、そして精神に病を抱えている人物であることが示されています。
彼は福祉サービスのカウンセリングを受けているものの、カウンセラーは彼を1人の人間として扱い、まともに話を聞いてくれているとは言えません。さらにはゴッサムの財政難を理由にカウンセリングは打ち切られてしまいます。
彼が念願のコメディアンとしてステージに立って注目されることがあっても、そこで彼に向けられている視線は、健常者とは異なる生き物としての「おかしな人」に対する好奇の目に似たものでした。
このように本作ではマイノリティとマジョリティとの間の断絶が何度も描かれています。
(メインに描かれていて話題にもしばしば上っているのは、富めるもの=市長のウェインやTVスターのマレーたちと、貧しいもの=ジョーカーの虚像を作り上げて便乗し、暴徒化した市民たちの構造だと思いますが)
神経と精神の病を抱えるマイノリティとしてのアーサーが非常に丁寧に描写されている本作においては、ジョーカーというキャラクターを単純な「狂っている犯罪者(善悪の判断もつかない「人間とは異なる何か」)」として片付けてしまうのは何か違うんじゃないのかなと私は思うのです。
権力者や金持ち、周囲の人たちから、人ならぬもののように扱われ、暴力にさらされ続ければどんなに純粋な人間も悪に染まりうる。決してアーサーが精神に病を抱えた人間だったからジョーカーが生まれたのではない。それが本作におけるジョーカー像なのです。
精神に異常をきたしたとされる「狂った悪役」というのはフィクションにしばしば安易に登場する便利なキャラクターですが、その背後にはマジョリティからの、アーサーのような精神障害者というマイノリティに対する差別というか、断絶的な態度があります。
恥ずかしながら私は本作を観て初めてはっきりとそのことに気づいたので、これも本作の持つ大事な1つのテーマなんじゃないかなと思うのです。
映画『ジョーカー』はこのような、物語にありがちな「サイコヴィラン」へのアンチテーゼとしての性格を持っていると私は思います。